吉永小百合さん、和泉雅子さんと並ぶ「日活三人娘」として一世を風靡した女優・松原智恵子さん。81歳になった今も、映画やドラマに出続けている現役の大ベテランです。
出典:https://be-story.jp/people/11533/
私生活では、1972年に結婚した旦那さんを2022年に突然亡くしています。ネットではその死因や、「娘さんも女優」という話まで出回っていて、何が本当なのか分かりにくくなっています。
旦那さんはジャーナリストの黒木純一郎さんで、2022年2月に80歳で亡くなりました。松原さんがインタビューで話す子供は息子さん1人で、女優の娘さんがいるという話には根拠がありません。
この記事では、取材帰りの車のデッドヒートから始まった馴れ初めや、サハラ砂漠を走った100日間の新婚旅行、突然の別れと息子さんのことを紹介します。
松原智恵子の夫はジャーナリストの黒木純一郎さん!2022年に80歳で急逝
松原智恵子さんの夫は、週刊誌の記者として60年近く活躍したジャーナリストの黒木純一郎さんです。1972年に結婚し、結婚50年の節目を迎えるはずだった2022年2月16日に、80歳で亡くなりました。取材相手を大笑いさせるような、型破りな記者でもありました。
黒木純一郎さんはどんな人?「女性自身」を支えた名物記者
黒木純一郎さんは早稲田大学に7年在籍したのち中退し、編集プロダクション「早稲田編集企画室」(現・早稲田企画)を立ち上げた人物です。『女性自身』の長寿企画「シリーズ人間」には1967年の第1回から関わり、瀬戸内寂聴さんの法話連載も30年以上担当していました。
出典:https://jisin.jp/entertainment/interview/2103409/image/0/
取材の現場にはジーンズに、胸のボタンを3つ開けたシャツという格好でひょうひょうと現れたそうです。高僧への取材で、いきなり小指を立てて「相変わらず遊んでますか!」とあいさつし、相手を大笑いさせたという逸話まで残っています。
70歳を過ぎても全国を飛び回っていて、寂聴さんからは「黒木さんって昔は本当にカッコよかったのよ。体もガッチリしていて色気もあってね」とからかわれ、うつむいて恐縮していたんだとか。写真の黒木さんも、無造作な髪と眼鏡がなんとも渋くて、寂聴さんがほめたくなる気持ちも分かります。
| 名前 | 黒木純一郎(くろき じゅんいちろう) |
| 生まれ | 1941年ごろ(1972年の挙式時に31歳、2022年2月に80歳で死去) |
| 職業 | ジャーナリスト・週刊誌記者 |
| 学歴 | 早稲田大学(7年在籍して中退) |
| 主な仕事 | 『女性自身』の「シリーズ人間」、瀬戸内寂聴さんの法話連載「寂聴 青空説法」など |
| 結婚 | 1972年9月23日(松原智恵子さんは27歳) |
| 好物 | スイカ(真ん中のおいしいところを先に取っておく食べ方だったそう) |
スイカの真ん中を最後まで取っておく食べ方なんて、ちょっと子供っぽくてかわいらしいですよね。松原さんがそれを横から取り上げると、不満そうな顔をしていたそうです。
2022年2月、外出先で倒れて1週間後に亡くなる
黒木純一郎さんが倒れたのは、2022年2月のことでした。『女性自身』によると、白内障の手術のあとに合わせる眼鏡を作りに出かけた先で突然倒れ、救急搬送された病院で1週間眠り続けたのち、2月16日に亡くなっています。
倒れたあと、黒木さんは自分で救急車を呼び、病院から息子さんに電話をかけています。先に駆けつけたのは息子さんで、松原さんはすぐには病院へ向かえませんでした。黒木さんはその息子さんに、尊厳死協会に入っているから延命治療はしないよう伝えたといいます。
夫婦はその14年ほど前、2008年ごろに、黒木さんに教えてもらって一緒に日本尊厳死協会に入会していました。そのあと黒木さんが目を覚ますことはなく、亡くなる数日前には家族で焼き肉店に行っていたほど、前触れのない別れでした。
なお、2023年の美ST ONLINEのインタビューでは「2月16日に地方で倒れ」と書かれていて、倒れた日付だけ記事によって食い違っています。亡くなった日が2月16日である点は、どの記事も同じです。
死因は「脳炎」?病名ははっきり公表されていない
ネットでは「黒木純一郎さんの死因は急性脳炎」と書いたサイトがたくさんあります。2022年12月の『徹子の部屋』で松原さんが話した、と説明しているサイトもあります。
ただ、松原さんのインタビューが載った『女性自身』『婦人公論』『美ST ONLINE』の記事や、番組の紹介記事を読んでも、病名までは書かれていません。どの記事にも共通しているのは「直前まで仕事をしていて、何の兆候もない突然の死だった」という点です。
番組を見た人の記憶なのか、どこかで話が変わったのかは分かりませんが、活字になったインタビューで病名が出てくるものは今のところありません。脳炎説は、ネットに出回っている話の一つと見ておくくらいがちょうどいいでしょう。
「あなたを看取ってから僕もいく」と約束していた
松原さんは昔から、一人でいることが大の苦手です。そんな妻のことを、黒木さんは「あなたを一人で残していくのは本当に心配だ。だからきちんと看取って、あなたを送ってから僕もいくよ」と話していたそうです。
その約束を守ろうと、80歳の黒木さんは前の年に脊柱管狭窄症と白内障の手術を受け、知り合いの医師から酸素ボンベを送ってもらってウオーキングを始める準備までしていました。倒れたのは、編集者に「もう少し暖かくなったらスタートしますよ!」と電話で話した翌日のことだったといいます。
それなのに、自分が先に旅立つなんて約束違反ですよね。毎日仏壇にご飯をお供えしながら、「何よ、勝手に早く逝っちゃって」と、遺影に向かって愚痴まじりに話しかけています。
引用:https://fujinkoron.jp/articles/-/6717?page=3
泣き言ではなく「約束違反」と遺影に文句を言うあたりに、半世紀近く連れ添った夫婦の距離感がにじみます。思わず目頭が熱くなりました。
馴れ初めは週刊誌の取材!母の大反対を押し切って結婚
2人が出会ったのは1967年12月ごろ、週刊誌の取材の現場でした。人気絶頂の清純派女優と、若い週刊誌記者。周りの反対を押し切って結ばれるまでの5年間は、ドラマ顔負けの展開でした。
出会いは「週刊現代」のインタビュー
出会いのきっかけは、『週刊現代』の「この人に会いたい」というインタビュー企画でした。当時の松原さんは「日活三人娘」と呼ばれ、この年のブロマイドの売り上げで女優部門1位。黒木さんは編集プロダクションを立ち上げたばかりでした。
このとき松原さんは22歳、黒木さんは26歳。『女性自身』のインタビューによると、松原さんは自分のことを細かく下調べしてきた黒木さんに感心し、年は4つしか違わないのに落ち着いていて物知りな、それまで周りにいなかったタイプの男性だと感じたそうです。
2023年の美ST ONLINEのインタビューでは、「10日間の密着取材」で出会い、黒木さんが撮影所やテレビ局にまで追いかけてきて、取材のあとは六本木で食事をするようになったと話しています。話が尽きない、何でも教えてくれる頼りになる人だったと振り返っています。
帰り道は車でデッドヒート!?
初めての取材の帰り道には、ちょっとしたハプニングがありました。それぞれの車で走っていたら、たまたま並走する形になり、抜いたり抜かれたりのレースのようになったそうです。
黒木さんのほうも運転には自信があったらしく、少し前に出るたびに抜き返してくる彼女を見て、気が強いけれど面白い女性だと思ったと、のちに懐かしそうに話していたといいます。取材相手の女優さんと公道でレースをしてしまう記者も、なかなかのものですけどね(笑)
松原さんは16歳で軽自動車、18歳で普通免許を取り、結婚前は高速道路で抜かれると「よくも!抜いたわね〜!」と必ず抜き返していたという、筋金入りのスピード狂。あの可憐な清純派のイメージで、まさかの負けず嫌いドライバーだったとは…!
真冬のCM撮影と、真鶴の海での人命救助
その後も、黒木さんが関わっていた着物メーカーのポスターに松原さんが起用されるなど、2人は仕事で顔を合わせるようになります。1969年、真冬に水着でシャワーを浴びるCMの撮影があり、松原さんがふと見ると、黒木さんが心配そうな顔でこちらを見ていたそうです。
決定打になったのは1970年の夏、神奈川県・真鶴の海での出来事でした。グループの1人が溺れ、波が高く岩にぶつかる危険もあって誰も動けないなか、黒木さんだけが海に飛び込んで助け出したといいます。
松原さんはこの姿を見て、黒木さんとの将来を考えるようになったそうです。目の前で人命救助なんてされたら、そりゃあ惚れ直しますよね。
母は「芸能人とは結婚させない」と猛反対
ところが、人気女優と若い週刊誌記者の恋は、周りから大反対されます。黒木さんは松原さんを心配する俳優仲間から「自分の身のほどを知って、身を引くべき」という電話を受けたこともあったといいます。
いちばん反対したのは、松原さんの母・君子さんでした。実家は名古屋市でアパートや旅館、銭湯まで経営していて、君子さんは『女性自身』の取材にも「智恵子は芸能人とは結婚させない。きちんとした実業家を見つけて交際してほしい」とはっきり話していたほどです。
ちなみに松原さんは、デビュー直後に父親から家と車をプレゼントされたという筋金入りのお嬢様。ネットには、実家が名古屋で「松原荘」というホテルを営んでいたという話も出ています。娘の結婚相手にきちんとした実業家を望んだ母親の気持ちも、分からなくはありません。
母親が次々とお見合い話を持ってきても、松原さんは写真すら見なかったそうです。黒木さんも何度も名古屋の実家に通って、家族を説得しました。
松原さん自身は、相手の収入のことなどまったく考えていなかったと振り返っています。結婚で大事なのはお金や地位ではなく「誰とするか」だ、というのが松原さんの考えでした。
親から家と車を贈られたお嬢様が、相手の収入なんて考えもしなかったと言い切るのですから、お母さんがやきもきしたのも無理はありません(笑)
1972年9月23日、京都・六角堂で挙式
2人が京都の六角堂で式を挙げたのは、1972年9月23日。松原さんは27歳、黒木さんは31歳でした。披露宴は翌1973年2月に開かれています。
出典:https://jisin.jp/entertainment/interview/2103397/image/1/#goog_rewarded
初めての取材で、松原さんは「27歳までに結婚したい」と話していたそうで、その言葉どおりの年齢での結婚でした。花のベールをかぶった松原さんの花嫁姿は、まるでお人形のよう。隣で少し照れくさそうに横を向く黒木さんも、なんだか微笑ましいですね。
気になるプロポーズの言葉については、2023年のインタビューでこんなふうに話しています。
ものすごく頼りになる人で、自然に交際が始まり、27歳で結婚しました。プロポーズはあったのかなかったのか思い出せないですが
引用:https://be-story.jp/people/11533/
母親の猛反対を押し切ってまで結婚したのに、プロポーズを覚えていないとは…!このおっとりぶりも、松原さんの魅力なのでしょう。
ちなみに、結婚した日を「1972年8月23日」と書いている記事もありますが、松原さん本人のインタビューを載せた『女性自身』では9月23日です。挙式の4日後の9月27日に新婚旅行へ出発しているので、日付は9月23日が正しいですね。
新婚旅行は100日間で17カ国!サハラ砂漠で遭難しかける
新婚旅行は、なんと100日間。イギリスからヨーロッパを回り、スペインから北アフリカに渡ってサハラ砂漠を走破し、トルコまで、17カ国・2万キロ近くを車で走りました。
出典:https://jisin.jp/entertainment/interview/2103397/image/6/
黒木さんがシルクロードの本を書くための取材を兼ねていて、カメラマンや取材クルーも別の車で同行していました。2023年のインタビューによると、ベルギーのアントワープでトヨタのコロナ2台を受け取り、ロンドン在住の友人とその助手を加えた4人で回ったそうです。
モロッコでは、松原さんが運転中に豪雨に遭い、泥の中で車が流されかけました。ライトで照らすと、地図にないはずの川が目の前にあったそうで、写真の誌面はこの遭難騒ぎを伝えた当時の『女性自身』です。
新婚旅行でサハラ砂漠を自分で運転して、遭難しかけるお嬢様女優…。スケールが大きすぎて、普通の新婚旅行の話がかすんでしまいます。自宅には今も、砂が結晶してできた「サハラの薔薇」を7つも飾っているそうです。
半世紀近く、ケンカ知らずの夫婦だった
49年あまりの結婚生活で、ケンカらしいケンカはほとんどなかったと松原さんは話しています。お互いの仕事にはほどよい距離を保ちつつ、家では細やかに支え合っていた2人です。
円満の秘訣は「仕事の話は家でしない」
夫婦円満の秘訣は、仕事の話を家に持ち込まないことでした。カレンダーにスケジュールを書いておき、「今日はロケなんだな」「週末からは東北へ出張なのね」と分かる程度の距離感がちょうどよかったといいます。
松原さんが出演作を見てとお願いすると、黒木さんは見てくれるものの、感想は一切言わなかったそうです。ところが仕事仲間には「すごくいい作品だから、ご家族で見てくださいよ」と、松原さんの映画のチケットを配っていたんだとか。
本人の前ではそっけないのに、外ではチケットまで配って宣伝係。そんな話、奥さんの耳に入らないわけがありませんよね(笑)
一度だけ叱られたのは、妊娠中のこと
仕事に口を出さない黒木さんが、一度だけ松原さんを叱ったことがあります。39歳で出産した松原さんが妊娠中に風邪をひき、熱と咳があるのに撮影へ行こうとしたときでした。
黒木さんに「そんなに無理をしてまで、仕事をする必要はないよ!」と言われ、松原さんは素直に撮影を休んだそうです。病気で仕事を休んだのは後にも先にもこの1回だけで、叱られたのも最初で最後だったといいます。
寂しがりの妻のために、仕事を切り上げて帰宅
自宅の庭には柿やみかん、ゆず、かぼすの木があり、毎年秋には日活時代の友人を招いて「収穫祭」を開いていました。たくさん実がなるのは、黒木さんがみかんやりんごの皮、卵の殻を木の根元に埋めて肥料にしていたおかげだとか。
一人でいるのが苦手な松原さんのために、黒木さんが出張するときは友人や親戚に泊まってもらっていました。京都で寂聴さんの取材を終えた日には、来るはずの人が来られなくなったと知って「若いころから一人でいると寂しがる人で……。だからすぐにでも帰ってあげなくちゃ」と、食事の誘いを断って急いで帰ったそうです。
70代の記者が、取材先から奥さんのもとへ飛んで帰る姿を想像すると、ほっこりしてしまいます。白くなった眉毛を松原さんが染めてあげていたという話も、仲の良さが目に浮かぶようです。
松原智恵子の子供は息子1人!「娘が女優」はデマ
松原智恵子さんがインタビューで話す子供は、39歳で出産した息子さん1人です。ネットでは息子さんの華やかな経歴や「娘も女優」という話まで出回っていますが、本人の話と照らし合わせると根拠の薄いものが目立ちます。
39歳で長男を出産
松原さんは38歳で妊娠し、39歳になった1984年ごろに長男を出産しました。結婚から12年目の、当時としてはかなりの高齢出産です。
出典:https://jisin.jp/entertainment/interview/2103397/image/2/
生まれたばかりの長男を抱いた松原さんの写真です。39歳のママとは思えない透明感で、これで出産直後というのだから驚きます。
ネットでは、子育て中は運動会や参観日などの学校行事にすべて参加し、当時のママ友とは今もランチ会を開く仲、という話がよく紹介されています。高校1年生の息子さんが「イギリスに留学したい」と言い出したときも、自分も10代で上京した身だからと反対しなかったとか。ただ、どちらもどの雑誌で語った話なのか、紹介しているサイトには書かれていません。
2022年の『婦人公論』では、夫と息子と一緒に訪れた国は47カ国にもなると話しています。夫が亡くなった今は息子さんと同居していて、息子さんが何かと気遣ってくれるそうです。
息子は医師?ロンドン留学から慶應医学部、東大病院の噂
ネットでよく見かけるのが、「息子さんは東大病院のお医者さん」という話です。高校1年生のときに自分から留学を決めてイギリスへ渡り、ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校を卒業、帰国後に慶應義塾大学医学部を出て、東京大学医学部附属病院の内科で働いている、という経歴まで細かく書かれています。
名前を「黒木謙太郎さん」とするサイトもあります。ただ、松原さんのインタビューが載った雑誌やニュースの記事を読む限り、出てくるのは「息子」「長男」という言葉だけで、職業や学歴、名前が出てきたことはありません。
黒木さんが倒れたとき、病院に駆けつけた息子さんに延命治療についての指示をしていたという話は本人のインタビューにも出てきます。医師説が本当なら心強い一人息子ですが、松原さん自身が息子さんの仕事を語ったことはなく、今のところはネットで広まっている経歴にとどまります。
「娘が女優」はデマ!母親役の多さが誤解の元?
「松原智恵子の娘は女優」という噂もありますが、これはデマ。松原さんが語る子育ての話に出てくるのは、いつも息子さん1人です。
松原さんは2019年の映画『長いお別れ』で、蒼井優さんと竹内結子さんが演じた2人の娘を支える母親を演じるなど、母親役を数多くこなしてきました。こうした親子役のイメージから「本当の娘さんでは?」と勘違いされた、という見方をするサイトが多いようです。
孫については、2016年の『徹子の部屋』で「孫はまだいない」と話していたと、まとめサイトに書かれています。放送の中身は分からず、その後の孫の話も本人の口からは出てきていないので、今の様子ははっきりしません。
81歳の今も現役!夫を亡くしたあとの松原智恵子
夫を亡くしてから4年半以上たった今も、松原さんは女優の仕事を続けています。2026年10月時点で、再婚や新しいお相手の報道は一度も出ていません。
雑誌やテレビでは、旦那さんへの思いと一緒に、大谷翔平選手やコンビニの話まで飛び出しています。
「松原智恵子さん本人が亡くなった」はデマ
「松原智恵子 死因」と検索すると、松原さん本人が亡くなったのかと勘違いしてしまう人もいるようです。でも、これは完全なデマ。亡くなったのは夫の黒木純一郎さんで、松原さん本人は2025年に80歳を迎えてからもテレビに出演し、2026年には出演映画のシリーズ新作も公開されています。
81歳で新作映画の公開が続いている人をつかまえて「死因」とは、縁起でもない話です。
「一人でも大丈夫」な自分を目指して
夫を亡くして半年後の『婦人公論』では、「これからは、『一人でも大丈夫』の自分にならなくてはと思っているところです」と話していました。2024年6月の『徹子の部屋』では、「しょっちゅう家にいなかったので、まだ取材旅行に出かけているのかな、ふと帰って来るのではないかなと思うこともあります」と明かしています。
私はこれまで一度も女優をやめようと思ったことはないのです。それも純一郎さんの優しいまなざしをずっと感じていたからなのでしょうか。
引用:https://jisin.jp/entertainment/interview/2103409/3/
これは2022年に『女性自身』で、亡き夫へ贈った手紙の一節です。手紙は、たくさんの国に連れていってくれたことへの「ありがとう」で締めくくられていました。夫婦で「生涯現役」を誓い合っていたそうで、松原さんは「私も女優の仕事をいつまでも続ける。生きている限り、できる限りやりたいねって話していました」と語っています。
大谷翔平にハマり、コンビニデビューも
最近の松原さんは、楽しみも増えているようです。2024年の『徹子の部屋』では大谷翔平選手にハマっていると明かし、わざわざアメリカ・ロサンゼルスまで試合を見に行ったと話していました。
2025年9月放送の『鶴瓶ちゃんとサワコちゃん』では、コンビニに一人で行けるかと聞かれて「最近行くようになりました」と答えています。送り迎えがないと動けないのかという質問に「うちの周りは大丈夫です」と返して、笑福亭鶴瓶さんと阿川佐和子さんを大笑いさせる場面もあったそうです。
80歳でコンビニデビューとは、さすが筋金入りのお嬢様です(笑)
一人が苦手だった松原さんが、一人でコンビニに行けるようになったと聞くと、ちょっと応援したくなりますね。
自宅は一軒家、練馬区説は未確認
松原さんの自宅は一軒家です。2022年の取材では、その10年ほど前の建て替えで段差をなくし、階段も広くゆるやかにしたと話しています。黒木さんは生前、松原さんの部屋を2階から1階に移すリフォームも提案していました。
ネットには「自宅は東京都練馬区」という説もありますが、報道で確かめられた住所ではありません。柿やみかんの木がある庭付きの一軒家、ということだけは本人の話からはっきりしています。
松原智恵子のプロフィールと経歴
16歳で映画デビューしてから65年以上、一度も女優をやめようと思ったことはないという松原智恵子さん。日活三人娘のころから81歳の今まで、出演作も受賞歴も途切れていません。
松原智恵子(まつばら ちえこ)
| 生年月日 | 1945年1月6日(2026年10月時点で81歳) |
| 出身 | 岐阜県生まれ、愛知県名古屋市育ち |
| 身長 | 157cm |
| 学歴 | 明治大学二部英米文学科 |
| デビュー | 1961年、映画『夜の挑戦者』 |
| 配偶者 | 黒木純一郎さん(1972年に結婚、2022年に死去) |
| 子供 | 長男1人(1984年ごろ誕生) |
高校生のときに日活の「ミス16歳コンテスト」に入賞し、副賞の撮影所見学をきっかけに、1961年の映画『夜の挑戦者』でデビューしました。父親から「3カ月で芽が出なかったら帰って来なさい」と言われて名古屋から上京したそうです。
その後は吉永小百合さん、和泉雅子さんとともに「日活三人娘」と呼ばれ、青春映画のヒロインとして大人気に。近年もNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(2021〜2022年)や、映画『長いお別れ』(2019年)に出演しています。
71歳のときには映画『ゆずの葉ゆれて』で、ソチ国際映画祭の主演女優賞と毎日映画コンクールの田中絹代賞をダブル受賞。主演映画『宮古島物語ふたたヴィラ』ではマドリード国際映画祭の主演女優賞を受け、2026年にはシリーズ新作『宮古島物語ふたたヴィラ かんかかりゃの願い』も公開されています。
まとめ
今回は「松原智恵子の夫・黒木純一郎は2022年に急逝…死因や医師の息子、娘が女優の噂は本当?」
ということで、松原智恵子さんの旦那さんと子供についての情報をまとめました。
- 夫は『女性自身』などで60年近く活躍したジャーナリストの黒木純一郎さん
- 2022年2月、外出先で倒れて1週間後の16日に80歳で死去。死因を「脳炎」とする話はネットにあるが、インタビュー記事に病名は出てこない
- 1967年に週刊誌の取材で出会い、母親の猛反対を押し切って1972年9月23日に京都・六角堂で挙式
- 新婚旅行は100日間・17カ国。サハラ砂漠で遭難しかけたことも
- 本人が話す子供は39歳で出産した長男1人。医師説・東大病院説はネットの話で、「娘が女優」はデマ
- 松原智恵子さん本人の死亡説はデマ。81歳の今も現役で、2026年10月時点で再婚の報道はない
お嬢様育ちのスピード狂女優と、ボタンを3つ開けた型破りな記者。半世紀近く、47カ国を一緒に旅した2人の物語は、映画にしても十分見ごたえがありそうです。




